浅草の劇場昔日



数多くの劇場が点在する浅草ですが、戦前にもインパクトの強い劇場は存在しました。今は建物の老朽化などで姿を消しましたが、そのスピリッツは今も現存する劇場たちに引き継がれています。 今回は劇場文化という観点で、一つの歴史をひも解く意味でも紹介しておきましょう。

塔の中にあるのは・・・~凌雲閣~

時は明治23(1890)年、長きにわたって鎖国し続けてきた日本が開国し、江戸幕府が崩壊して明治政府へ移行してから23年経過したこの年、浅草に一つの塔が完成しました。その塔の名前は「凌雲閣」で、東洋のエッフェル塔として東京の人たちだけでなく多くの人々に拍手を以て迎え入れました。 現在は対岸の業平橋にスカイツリーがそびえたっていますが、今回紹介する凌雲閣はその大先輩的立場となるわけです。高さは雲をしのいで天空へと向かうことからそう名付けられ、遠くは秩父や房総半島、相模の町並みなどを臨むことができたそうです。また、今では当たり前のように利用するエレベータが最初に装備された建造物としても有名でしたが、故障続きで役に立たなかったのは、当時の技術故仕方ないことでした。 1911年に地下フロアの一角に劇場が開設し、十二階演芸場という愛称が名づけられました。狂言などといった各種芝居を中心に展開し、客足が下降気味だった凌雲閣のピンチを救ったランドマーク的存在でした。しかし、1923年9月に発生した関東大震災で建物自体が罹災し、復旧するとしても一から作り直す必要があるという診断が下り、運営会社自体経営難に苦しんでいたことから再建を断念せざるを得ませんでした。

その後は・・・

劇場そのものに関しては新しく建て直せば問題はなく、代替施設として凌雲座として生まれ変わりました。第二次世界大戦による大空襲を乗り越え、運営会社や名称こそ変更はありましたが、現在はパチンコ店として営業しています。現在は記念碑が敷地内にあり、近辺の商業施設建築時に土台部分が発掘され、この地に凌雲閣があったことを物語っています。 四方山話としてひとつ。 2012年にかつての凌雲閣を平成の技術で新たに作り直すというプロジェクトが発足し、複数の企業が中心となって進めてきましたが、建設コストなどが高騰するなどといったことから内部での足並みの悪さが災いし、結局は実現しませんでした。

一つの通りの由来となった劇場 ~国際劇場~

国際通りといえば、那覇にある沖縄県道39号線が真っ先にイメージすることでしょう。しかし、もう一つの国際通りは浅草に存在しています。その発端となったのが国際劇場で、関東大震災で崩壊した前述の凌雲閣から14年経過した1937年に開館しました。映画会社である松竹が運営会社とし、同社の管轄にある歌劇団のホームグラウンドという位置づけとして営業を開始しました。 歌劇団の公演と映画の上映ができることから、庶民にとって憩いの場として人気を博しましたが、第二次世界大戦時においては1944年に一時閉鎖となり、その翌年には一部が罹災したものの、修理ののち1947年に営業を再開しました。国内外問わず大勢の方が利用することから、外国語のアナウンスにも力を入れていたのですから、浅草の「現在(国際観光都市として)」を予見していたのでしょう。 東洋一の大劇場としてふさわしい設計もさることながら収容人数が約3800人で、飛躍するならば約5000人前後の収容ができるということから、浅草で一番大きな劇場という印象を与えたのでした。 後年はテレビ番組の公開収録などでも活用されましたが、建物自体の老朽化が災いし1982年に営業を終了し、その後解体されました。

現在の姿は・・・

国際劇場跡地はその後、浅草ビューホテルとして生まれ変わり近辺に凌雲閣があったことから、空高くそびえたつビルとして継承しながらも、国内外問わず宿泊される方を中心に迎え入れています。 また、東京都道462号線の一部区間が「国際通り」として襲名しているのも、かつてこの地に劇場があり、その名残として現在も残されています。それは、浅草の劇場文化を今にしっかりと伝えていくために名付けられました。

まとめ

今回は戦前に建造された劇場にまつわる話をお送りしましたが、この二つの劇場が浅草に与えた大衆演劇の影響と思いは、現在営業している劇場などにしっかりと受け継がれていることから、浅草演劇ルネッサンスという意味でも与えた影響は大きかったことを物語っています。 浅草地区での不動産の売却、購入に関してお悩みの際には【株式会社日本不動産】まで、ご一報ください。